大七酒造概要

【二本松の風土】


〈地形〉

 二本松市は、東は阿武隈山地から、西は安達太良山にまたがる、東西に細長い形をしています。東部は古い地質年代につくられた花崗岩層のなだらかな丘陵、西部は新しい地質年代に火山活動によってつくられた険しい火山地であり、中央部を阿武隈川が流れます。山と丘陵が多く、市内の標高差は1500m以上。地層の隆起運動と火山活動によって、複雑で変化に富んだ美しい自然景観が生み出されています。安達太良山の周辺には、岳温泉をはじめ多くの温泉があり、また山麓部からは良質の地下水が豊富に湧出しています。

 冬季は寒冷ながら、南北に連なる連峰が冬の季節風に対して屏風の役割を果たすことから、二本松における降雪は比較的少ないと言えます。初夏の頃に日較差が大きい内陸型の気候です。東北の中では夏の雷が比較的多発する地帯です。

安達太良山

〈歴史〉

 当地方に数々のこる遺跡群は、約四千五百年前にすでに集落が形成されていたことを示しています。五世紀以降には陸奥国がおかれました。国峰たる安達太良山は見事な円錐形の活火山で、古代から信仰の続いた神の山です。万葉集には安達太良を詠み込んだ和歌が三首も収められており、人々の印象深さがうかがえます。阿武隈川に沿って鬱蒼とした杉の大木が茂る奥州安達が原は、黒塚の鬼婆伝説で古くから知られています。
 南北朝の頃、足利尊氏は一族の畠山高国を奥州探題に任じ、二本松に居を構えさせました。高国は白旗ヶ峯に二本松城を築き、畠山家の居城としました。このころ隣国の伊達氏は日の出の勢いがあり、1586年、12代畠山義綱は伊達政宗に滅ぼされました。その後当地は伊達、蒲生、加藤氏の領地となりました。
 徳川の代、1643年に丹羽光重が白河より移封され、初代二本松藩主となりました。領地は10万700石、福島県の中央部を支配していました。築城の名手であった丹羽家は、棚倉城、白河の小峯城築城に引き続いて二本松城大修築と城下町の整備をまかされました。それは当時の土木技術の粋を集めた大事業であり、必然的に家臣達も学問への関心を高め、好学の風が領内に及んで藩校・敬学館は多くの学者を輩出しました。6代藩主高庸は、儒学者岩井田昨非の献策によって、藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正のいましめの言葉を刻ませました。今も戒石銘として知られ、国史跡として指定されています。戒石銘にみられる儒学の教え、戊辰戦争で奥羽列藩同盟の信義を重んじて玉砕した二本松少年隊の悲劇は、高潔と勇気を重んじる二本松の精神的支柱として今も息づいています。 (参考文献:「二本松市史」)

霞ヶ城

〈伝統産業・観光〉

 二本松領内には城下町特有の酒造業、菓子業、和家具、刀剣、「万古焼」窯元などがあります。二本松は領内の新田開発の成功により良質な米がとれたと同時に、日本三井のひとつ「日影の井戸」で知られるように名水の地でもあったため、古くから酒造業が栄えました。現在、福島県内では会津とともに屈指の名醸地として躍進しています。高村光太郎の「智恵子抄」で有名な智恵子の生家もまた、当地に長く伝わる蔵元でした。
 武家、商家に親しまれていた菊づくりの伝統は、今日の日本最大の菊人形展に受け継がれています。また1660年に始まる二本松提灯祭りは、日本三大提灯祭りの一つとして、今日に華麗で勇壮な姿を残しています。二本松藩の奥座敷にあたり、開湯は1300年前という歴史を誇る岳温泉は、今も東北有数の温泉地として栄えています。鬼婆伝説の地には「安達ヶ原ふるさと村」が開園しています。


生もと造りの大七酒造概要TOPヘ