大七酒造概要

【大七酒造歴代当主】


初代 太田三良右衛門栄親<1721年(享保6)生 1776年(安永5)没 享年56歳>

太田三良右衛門栄親

一代目妻

初代 太田三良右衛門栄親<1721年(享保6)生 1776年(安永5)没 享年56歳>
 太田三郎兵衛好重の子、三良右衛門は、本家がより大きく栄えたのを機に、1752年(宝暦2年)に32歳で現在の地に分家独立しました。当時の酒銘は「大山」。


 初代の肖像画は、黒の羽織、薄墨色の着物をまとった、全体に質素な印象です。傍らに脇差しと扇子とがあり、帯刀を許されていたことを示しています。鋭い眼差し、意志的で精悍な表情に創業者ならではの気迫が感じられます。手にしている黒い数珠が特徴的で、信仰篤き人であったことが伺えます。
 この肖像画の上には、善性寺十九代住職による賛が書いてあります。

 

賛念誉宗護五十六歳畫像

 

  居士旦暮信佛願  居士 旦暮に仏願を信じ
  馳情送想慕安養  情を馳せ想を送り 安養を慕う
  坐臥至誠勵稱名  坐臥 至誠にして称名に励む
  心鏡元明不受埃  心鏡 元より明らかにして埃を受けず
  闍毘爐中得舎利  闍毘するに爐中に舎利を得たり
  勿疑棲神遊金池  疑うなかれ、神を棲ませ金池に遊ぶことを
  祇畫眞影遺後世  祇だ真影を画きて後世に遺す
  季孫稽首如在世  季孫 稽首すること世に在すが如からん


二代目 太田伊兵衛<1748年(寛延元)生 1818年(文政元)没 享年71歳>

太田伊兵衛

二代目妻

 三良右衛門が分家独立した時、伊兵衛は五歳でした。初代が亡くなった後、数え二十九歳で家督を継いでいます。伊兵衛は宗儀という号を名乗っていたと伝えられています。伊兵衛は近世の太田家当主の中で最も長寿を授かりました。
 肖像画は、五三の桐の五つ紋の正式な羽織を着、脇差しと共に描かれています。この肖像画にも、短い賛が記されています。

 

嗜 酒 不 乱  酒を嗜みて乱れず
交 人 克 親  人と交わりて克く親しむ
三 寶 帰 敬  三宝に帰敬し
持 名 終 全  持名 終に全うす。


三代目 太田七右衛門定安<1786年(天明6)生 1845年(弘化2)没 享年60歳>

三代目太田七右衛門定安

三代目妻

 三代目から七右衛門の名が現れ、以後襲名されていきます。この名は太田家に縁ある武家の田丸家に由来するものとも言われます。肖像画には朱盃を掲げ持って微笑んでいる姿が描かれ、初代の厳しい精神性とは違った、どこかゆとりのある遊び心が伺えます。着物にも洒脱なセンスを感じさせる、典型的な三代目であったようです。三代目には男子がなく、長女に婿をとりました。


四代目 太田七右衛門定安<1811年(文化8)生 1877年(明治10)没 享年67歳>

四代目太田七右衛門

四代目妻

 安積郡日出山遠藤儀右衛門の子で、太田家を継いだ四代目は家業を大いに隆盛させ、最も財を築きました。公的にも町年寄並の褒誉を受け、公職につくなど活躍し、殿様を始め武家との付き合いも広かったと伝えられています。
 こんなエピソードがあります。

当家酒蔵のある竹田町は過去2度の大火に見舞われていますが、万延元年の大火は焼失戸数六百五十八戸という大火災となりました。この時、四代目は藩内の武士と土湯温泉へ湯治に行く約束をしていました。こんな折りに行かなくてもと止める家族に対し、武士との約束は守らねばならぬと悠然と出掛けた四代目は、土湯街道あたりで、まだ二本松大火の情報が伝わる前に大量の材木を買い付けました。そのため当人が帰るより早く、太田家の焼け跡には山のように材木が届いたため、再建は最も早かったそうです。


花梨 また四代目は、殿様の別邸にあった花梨の巨木が、落雷で半身が大きくえぐられた形になったのを九代丹羽長富侯より戴いてきました。雷が一度落ちた木には二度とは落ちないだろうと験を担いだのと、「金は借りん」という意味を込めて、「外に樫(貸し)」「内に花梨(借りん)」を太田家の家訓とし、この花梨を中庭に植えたのだといいます。この花梨は現在もそびえています。


五代目 太田長治(襲名せず)<1837年(天保8)生 1871年(明治4)没 享年35歳>

 明治元年、二本松は戊辰戦争の戦場となりました。戦火が目前に迫ると、町民の多くは二本松藩の盟友であった山形の米沢へ苦難の逃避行をし、城下では十代の少年達からなる二本松少年隊の悲劇も起こっています。二本松城が落城すると、町内には分捕り合戦、略奪が展開され、当家にも生々しい傷跡が残りました。
 太田家歴代でただ一人、長治には肖像画が残されていません。四代目より先に、三十五歳の若さで亡くなったため、五代目は家督を継ぐことがなかったのです。早世の原因が、戦乱に因るものかどうかは伝わっておりませんが、敗戦後の荒廃を極めた状況で家業を守る困難が死期を早めたことは想像に難くありません。


六代目 太田七右衛門定一<1859年(安政6)生 1914年(大正3)没 享年56歳>
六代目太田七右衛門

 両親が相次いで早世した数年後、六代目は十九歳で祖父から家督を継ぎました。六代目は祖父の死で後ろ盾を失い、孤独な独り立ちを強いられることになりました。
若い六代目は苦労を余儀なくされましたが、ある出来事をきっかけに発憤し、生涯酒造りに打ち込んだというエピソードが伝えられています。ある時、原料米を買い付けている米屋から、掛けではなく現金払いにしてほしいと要求されたそうです。酒屋の信用も落ちたものだと嘆いていると、本宮の名門、鴫原家から嫁いだ妻のハルが、自分の高価な嫁入り道具一式を惜しげもなく売り払って、米を買い入れる資金を作ってくれました。この心懸けに打たれた六代目は、そのときから酒造りにいっそう精進し、晩年に至るまで堅実経営で信用を高めたということです。
 六代目は、その後、町制が布かれた二本松町の町会議員なども数期務めつつ、晩年に至るまで自ら酒蔵の経営に専心しました。「二本松寺院物語」には、六代目から「七代の太田七右衛門に至って、銘酒『大七』は益々その品質を改良して名声大に揚がり、随ってその造石高も次第に多く、資産又歳々に増殖して同町内一二の富家を以て称せられました」と書かれています。


七代目 太田七右衛門巳之松<1869年(明治2)生 1917年(大正6)没 享年49歳>

七代目太田七右衛門

七代目妻

 七代目は婿養子として安積郡大槻村の酒造家岡部家から来ました。
 師範学校を卒業し、子供の教育、躾には大変熱心であったといいます。幹部候補として幾たびか従軍しており、第一次世界大戦当時の陸軍将校姿が写真に残っています。
 晩年まで酒造りに専心した六代目の死を受け、七代目の家督を継ぎましたが、自身の酒造りの経験は乏しかったため、酒蔵経営はわずか三年間、大正3、4年に全国を襲った大腐造の嵐に巻き 込まれて酒造りが思うに任せず心痛のうちに病気で急逝する最期となりました。


八代目 太田七右衛門貞一<1901年(明治34)生 1993年(平成5)没 享年93歳>

八代目当主

八代目妻

 八代目は、七代目の急逝によって旧制安積中学を中退し、弱冠十六歳にして家督を継ぎました。その後、秋田、灘の銘醸地を訪ねては酒造りの研鑽に励み、昭和2年の福島県清酒品評会で第一位、昭和3年には昭和天皇陛下即位式典の御用酒に選ばれる栄誉を受けました。そしてついに、昭和13年の第16回全国清酒品評会において最高首席優等賞すなわち全国第一位を獲得し、名酒大七の存在は全国に知られるところとなりました。
 明治末年に、それまでの“生もと”にかわって“山廃もと”、“速醸もと”などの簡便な醸造法が発明され、国策として急速に全国に普及が図られていました。家督を継いだばかりの八代目もいち早く速醸もとを試みましたが、これでは自分の求める酒は実現できないと判断し、あくまで自らの酒の理想を追求するために生もとを守り続け、これが後に大七を大きく特色づけることとなりました。


 「大七」という酒銘は、八代目の命名です。江戸時代の酒銘「大山」は全国に複数あったことから、これに替えて創業家にちなむ名を冠するのがよいと考え、七右衛門の名を組み合わせた「大七」とすることに決めたそうです。今も有名な「酒は大七」の沿線看板を設置し始めたのは昭和7年からで、早くからブランド確立に努力した進取の気性の持ち主でもありました。
 八代目は青年時代に結核を病み、妻くにの助けを得て病床から酒造りを指揮していたこともありました。この体験から終生健康に気を配り、結果的に太田家最長命を誇ることになっています。壮年時代は町議会議員、二本松ロータリークラブ初代会長を務めるなど周囲の信望厚く、満91歳の天寿を全うするまで、終生酒造りに打ち込む人生でした。

最高首席優等賞 大七酒造本舗

 


九代目 太田七右衛門精一<1927年(昭和2)生>
太田精一

 八代目が長く社長を務めたため、副社長として実質的に経営を支え、社長に就任したのは昭和57年です。この年、数年来の高級地酒ブーム、差別化商品時代の到来を見極めて「大七生もと(きもと)」を発売し、成功を収めました。


 地酒ブームが淡麗辛口の吟醸酒中心に進む中、九代目はあくまでも大七らしさ、生もと造りの良さを表現することを心掛け、着実に生もとの品質向上と技術開発に努めた結果、全国でも大七が生もと造りの代表銘柄と目されるまでに至りました。「舌にものさしが付いている」と自称するほどの優れた利き酒能力が、常に安定した品質管理で、商品の信用を高めることに貢献しました。
 九代目は華美を慎み、石橋を叩いて渡る堅実さで、規模を拡大しながらも無借金の健全経営を成し遂げています。動物や花を育てることをこよなく愛し、穏やかな人柄で親しまれました。二本松酒造組合理事長を務めました。


十代目 太田英晴<現当主>
太田英晴

昭和35年生。
東京大学法学部卒。
国税庁醸造試験所で研修後、大七酒造に入社。
専務取締役、取締役副社長を経て、平成9年8月より現職。
(社)日本青年会議所酒類部会 第40代部会長(1999年度)


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