【大七酒造歴代当主】 |
| 初代 太田三郎兵衛好重<1721年(享保6)生 1776年(安永5)没 享年56歳> | |
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初代 太田三郎兵衛好重<1721年(享保6)生 1776年(安永5)没 享年56歳>
賛念誉宗護五十六歳畫像
居士旦暮信佛願 居士 旦暮に仏願を信じ |
| 二代目 太田伊兵衛<1748年(寛延元)生 1818年(文政元)没 享年71歳> | |
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三良右衛門が分家独立した時、伊兵衛は五歳でした。初代が亡くなった後、数え二十九歳で家督を継いでいます。伊兵衛は宗儀という号を名乗っていたと伝えられています。伊兵衛は近世の太田家当主の中で最も長寿を授かりました。
嗜 酒 不 乱 酒を嗜みて乱れず |
| 三代目 太田七右衛門定安<1786年(天明6)生 1845年(弘化2)没 享年60歳> | |
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三代目から七右衛門の名が現れ、以後襲名されていきます。この名は太田家に縁ある武家の田丸家に由来するものとも言われます。肖像画には朱盃を掲げ持って微笑んでいる姿が描かれ、初代の厳しい精神性とは違った、どこかゆとりのある遊び心が伺えます。着物にも洒脱なセンスを感じさせる、典型的な三代目であったようです。三代目には男子がなく、長女に婿をとりました。 |
| 四代目 太田七右衛門定安<1811年(文化8)生 1877年(明治10)没 享年67歳> | |
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安積郡日出山遠藤儀右衛門の子で、太田家を継いだ四代目は家業を大いに隆盛させ、最も財を築きました。公的にも町年寄並の褒誉を受け、公職につくなど活躍し、殿様を始め武家との付き合いも広かったと伝えられています。 当家酒蔵のある竹田町は過去2度の大火に見舞われていますが、万延元年の大火は焼失戸数六百五十八戸という大火災となりました。この時、四代目は藩内の武士と土湯温泉へ湯治に行く約束をしていました。こんな折りに行かなくてもと止める家族に対し、武士との約束は守らねばならぬと悠然と出掛けた四代目は、土湯街道あたりで、まだ二本松大火の情報が伝わる前に大量の材木を買い付けました。そのため当人が帰るより早く、太田家の焼け跡には山のように材木が届いたため、再建は最も早かったそうです。
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| 五代目 太田長治(襲名せず)<1837年(天保8)生 1871年(明治4)没 享年35歳> | |
明治元年、二本松は戊辰戦争の戦場となりました。戦火が目前に迫ると、町民の多くは二本松藩の盟友であった山形の米沢へ苦難の逃避行をし、城下では十代の少年達からなる二本松少年隊の悲劇も起こっています。二本松城が落城すると、町内には分捕り合戦、略奪が展開され、当家にも生々しい傷跡が残りました。 |
| 六代目 太田七右衛門定一<1859年(安政6)生 1914年(大正3)没 享年56歳> | |
両親が相次いで早世した数年後、六代目は十九歳で祖父から家督を継ぎました。六代目は祖父の死で後ろ盾を失い、孤独な独り立ちを強いられることになりました。 |
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| 七代目 太田七右衛門巳之松<1869年(明治2)生 1917年(大正6)没 享年49歳> | |
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七代目は婿養子として安積郡大槻村の酒造家岡部家から来ました。 |
| 八代目 太田七右衛門貞一<1901年(明治34)生 1993年(平成5)没 享年93歳> | |||
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八代目は、七代目の急逝によって旧制安積中学を中退し、弱冠十五歳にして家督を継ぎました。その後、秋田、灘の銘醸地を訪ねては酒造りの研鑽に励み、昭和2年の福島県清酒品評会で第一位、昭和3年には昭和天皇陛下即位式典の御用酒に選ばれる栄誉を受けました。そしてついに、昭和13年の第16回全国清酒品評会において最高首席優等賞すなわち全国第一位を獲得し、名酒大七の存在は全国に知られるところとなりました。
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| 九代目 太田七右衛門精一<1927年(昭和2)生> | |
| 八代目が長く社長を務めたため、副社長として実質的に経営を支え、社長に就任したのは昭和57年です。この年、数年来の高級地酒ブーム、差別化商品時代の到来を見極めて「大七生もと(きもと)」を発売し、成功を収めました。
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| 十代目 太田英晴<現当主> | |
昭和35年生。 |
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また四代目は、殿様の別邸にあった花梨の巨木が、落雷で半身が大きくえぐられた形になったのを九代丹羽長富侯より戴いてきました。雷が一度落ちた木には二度とは落ちないだろうと験を担いだのと、「金は借りん」という意味を込めて、「外に樫(貸し)」「内に花梨(借りん)」を太田家の家訓とし、この花梨を中庭に植えたのだといいます。この花梨は現在もそびえています。



